沖縄産業開発青年協会

出典: 沖縄事典

社団法人 沖縄産業開発青年協会


目次

「自分の将来は自分自身で切り拓く」

~やんばるの豊かな大自然にかこまれた広大な敷地!この恵まれた環境の中で自分の能力をためしてみよう!~

総面積69.36ヘクタール、約208,000坪を誇る広大な敷地。施設内には宿舎、体育館、グラウンド、やんばる自動車学校などがあります。合宿形式による規則正しい集団生活を通して、人間性を高める教育訓練と働く自信と意欲を付与させることを目的に、実践的な訓練を通して、 さまざまな技術や資格、免許の取得を目指します。

~明日へ羽ばたくために、今できることがある~

 戦後の混沌とした社会情勢の中で、基本的な生活習慣と機械技術を習得させ「自分の将来は自分自身で切り拓く」ことのできる若者を育成することを目的に1955年4月、当時の沖縄青年連合会が沖縄産業開発青年協会を創設しました。

 以来、8,000名あまりの若者が訓練を修了し、多くの卒業生が建設技能者として郷土の復興、振興に寄与しています。

 また、県議会議員や村長、警察署長などの公職歴任者、企業経営者など各界各層で幅広く活躍しています。

 創設当時、海外移住は若者たちの大きな夢でした。関係者の努力で移民青年隊が実現し、ブラジル・アルゼンチン・ペルー・ボリビアなどへ多くの青年が旅立ちました。彼らは異国の大地に根をおろし、各国で指導的立場を確立しています。

 創設以来50年あまり、沖縄産業開発青年隊はこれから先を見据え、若者にレベルの高い各種技術や免許を修得させ、新しい時代に適応できる若者を育成していきます。

≪教育理念≫

☑自主、自立の精神(働きながら学ぶ)
☑開拓精神(自分自身の将来は自分自身の手で切り拓く)
☑人間力(忍耐力:仕事は、工夫して行い、最後までやりとげる)

≪教育訓練方針≫

☑共同生活を通した規律訓練

 ・規律ある共同生活を通し、協力・協調の精神を涵養し、いかなる環境にあっても自活することのできる心身ともに健康で地域社会に役立つ青年を養成する。


歴代理事長

 初代理事長  瑞慶覧 長仁

 二代理事長  外間 喜明

 三代理事長  永山 研次

 四代理事長  山川 宗徹

 五代理事長  宮城 常吉

 六代理事長  松田 憲和

 七代理事長  伊集 盛元

社団法人 沖縄産業開発青年協会

1.目的

  ・沖縄産業開発青年協会は、沖縄産業開発青年隊の訓練機関として、沖縄県の諸施策を基に有能な青年技術者の養成と青少年の健全育成を図り、もって沖縄県経済の発展に寄与することを目的とする。

2.沿革

①創立 昭和30年(1955年)4月28日
②旧名護町(現名護市)東江の農業研究指導所名護支場構内で産声をあげる。
③名護キャンプ、大宜味大保キャンプ、大里村大城キャンプ、今帰仁村呉我山キャンプと移動し、昭和35年5月に現在の恒久訓練所に移動し現在に至る。


 ◆総敷地面積69.36ヘクタール(約208,000坪) 

 ◆農地面積19.50ヘクタール(約58,500坪)

3、募集について

①入隊資格 義務教育を卒業した15歳から32歳までの男子

4、訓練期間

6ヶ月間
〔前期〕4月~9月
〔後期〕10月~3月

5、定員

4月入隊 80名
10月入隊 60名

6、選考試験会場

開発青年隊訓練所
沖縄県八重山支庁

7、沖縄産業開発青年協会で取得できる各種資格・技術

①車両系建設機械運転技能講習修了証
②車両系建設機械(解体用)運転技能講習修了証
③小型移動式クレーン運転技能講習修了証
④フォークリフト運転技能講習修了証
⑤玉掛技能講習修了証
⑥ローラー特別教育講習修了証
⑦ガス溶接技能講習修了証
⑧アーク溶接特別教育講習修了証
⑨大型特殊自動車免許証


青年隊綱領

一、私達は、友愛と共励を信条として、自主自立の精神を培うために団結します。
一、私達は、苦しみを分け合い、開拓精神を養います。
一、私達は、知識を広め技能を練磨し、自己の完成につとめます。
一、私達は、今日一日をより良くすごします。


沖縄産業開発青年隊 隊歌

一、南の空 いま晴れて
希望に燃ゆる若人が
未開のよくや 拓かんと
さきがけここに集いたる
われら開発青年隊
二、あおげば昔 おや達が
黒潮はるか乗り越えて
郷土の栄にないたる
尊き偉業つがんかな
うたえ開発青年隊
三、自立進取の意気高く
きたえしかいな 力あり
昼なお暗き 密林も
やがて楽土と輝かん
これぞ開発青年隊
四、見よや雄飛の旗じるし
友よはばたきいざ行きて
世界の民の友となり
共に築かん理想郷
われら開発青年隊


第一節 草創の背景

 一、はじめに

 昭和20年3月28日、慶良間列島に上陸した米合衆国軍は、相次いで4月1日には沖縄本島の読谷村と北谷村に上陸、本当の中央突破を敢行した。そして沖縄は、わが国で唯一の地上戦の場と化し、100日あまりに及ぶ鉄の暴風が吹き荒れて修羅場と化した。

 こうして、沖縄戦は、人類史上かつてない悲惨さをもたらしたのであった。

 第二次世界大戦で、最も激戦地となった沖縄は20数万の尊い人命を失い、昭和20年6月23日、その組織的戦闘は終結した。それは8月6日の広島、9日の長崎に対する原子爆弾投下とともに8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件交付ックする決定的要因となった。ポツダム宣言の諸条項は沖縄にも適用されるべきもので、その条件の一つの「日本の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我らの決定する諸小島に局限せられるべし」に従い、沖縄はアメリカに占領されった当初から、その施政策下におかれる位置にあった。

 米軍の上陸とともに、一切の貨幣経済の機能が停止し、県民は物々交換やあり合わせのものでその日その日の生活を維持しなければならなかった。

 狂気のように3ヶ月あまりも吹き荒れた徹の暴風で肉親を失い、して身体は砲弾の破片で傷だらけのまま、戦火の中からかろうじて生きながらえた人々は、自らはなすすべもなかったのである。まだ、悪夢からさめぬまま、生き残った人々は米軍の指定する場所に収容され収容所の生活を余儀なくされた。

 一切のものを失った県民は、米軍から支給される食糧で日々を食いつないでいかなければならなかった。そして、敗戦の虚脱状態から人々がわれを取り戻した時、沖縄はすでに異民族の統治下におかれていた。

 ときがたつにつれて人々は収容所から自分の部落への移動がはじまり、不自由ながらも精神的な安定感を取り戻すことが出来たのであった。そして住居を復旧し、荒廃した田畑を耕しながら食糧の増産に励み、徐徐に生活の場を整えていった。

 二、地域青年団の結成

 戦禍によって荒廃した郷里を再建しようと、青年たちは昼は鍬をとり、ハンマーを握り、夜は部落の治安維持に当たり一致協力して、戦災復興に向かって団結しつつあった。しかし、こうした青年たちはごく少数で、大多数は米軍作業雇用員として部隊内に設置されたキャンプに住み込み、そのため村おこしも思うようにいかなかった。

 戦争から敗戦へ、そして新しい沖縄の復興へと遅々としながらも、人々は明日へ向かって歩みつづけた。敗戦の虚脱感からぬけだし戦後復興へと忍耐づよく頑張ったが、人々の心身の疲労はかさなるばかりで、次第に娯楽を求めるようになってきた。このような要求にこたえてどこの部落でも、青年を中心とした「村芝居」が催されるようになっていた。

 その頃、フィリピンや南洋諸島あたりから県民が引き揚げてくるようになり、また本土各地や台湾などへ疎開していた人々も一挙に帰ってきた。それに軍隊で外国に行っていた父や兄弟たちも帰ってきた。男手の不足していた町や村は急に活気づき、この人たちが外地から持ち帰ってきた三味線や、その他の楽器などで「村芝居」はいよいよ本格的になった。練習のための集まりの機会も多くなり、そのことが青年会の結成に拍車をかけるようになった。

 一方、青年たちのほとんどが米軍雇用員として働いているため、毎日が「戦果(当時のはやり言葉で米軍物資の横流しや盗みを働くこと)」の生活であった。そのため日々の生活に何の目標ももたず、ただいたずらにその日暮らしをする青年たちがふえてきた。

 こうした浮薄な青年たちの動向に対して、なんとかして彼らの内部に巣くっている「戦果思想」を排除し、青年として夢のある生活を取り戻さなければという思いが当時の青年有志の心を痛めていた。そしてこのような事が、修養機関としての青年会結成を促す大きな要因にもなった。

 周囲からの要求や、あるいは自発的な意思によって部落青年会が各地で次々と結成さえr、そのほとんどが昭和21年6月頃までに完了していた。また昭和22年の7月頃は、各市町村青年会の結成をみていた。その頃はまだ部落間の自由崇高が禁止されていたため、青年団の情報交換も滞りがちであった。

 この年の9月までには各地区青年団が結成されていたが、前述のように当時の陸上交通は非常に不便であって、いろいろの連絡や会合を行うにも困難がともなった。

 したがって地区青年会は結成されたとはいえ、名ばかりの青年会で実態はきわめて貧弱な組織であった。それでも地区青年会の結成は予定通り進み、市町村青年会はそれぞれ該当する地区青年会に加入した。

 このように部落青年会、市町村青年会、地区青年会と形の上では組織ができあがり、郷土再建へ向けて青年組織の基盤は一応ととのったのである。

 三、沖縄青年連合会の誕生

 一方、中央組織として沖縄青年連合会の結成準備が着々すすめられていた。昭和23年10月には、沖青連結成のための第1回準備委員会が、地区青年会の正副会長を集めて知念の高台にあった知念高校で開かれた。

 沖縄全青年の持つ力を組織化して、強力な青年運動を展開していくためにも、中央組織の結成が必要であるという積極的な意見と地区青年会結成後、日がまだ浅く中央組織の結成は、時期尚早という意見もでたが、結局、結成しようということになり、第二回結成準備委員会を名護町で開く事を決めた。

 同年11月初旬、全島の陸上競技大会が名護で行われたが、その翌日、午前8時から名護の青年会館において第二回準備委員会が開かれた。この日の準備委員会で沖青連結成大会の日程や大会会場などが決まり、昭和23年12月17日、本島内各市町村青年会の代表が与那原小学校に集まり、沖青連結成大会が開かれた。

 当時の中部地区青年会長であった長浜宗安氏を議長に議事が進められ、初代会長に長浜宗安氏が選出されて、ここに沖縄青年連合会(以下沖青連)は誕生したのである。そして、戦後の青年運動が全県的に強力に展開されていった。

 四、村おこし運動の展開

 戦争によっては開しつくされ、敗戦の虚脱状態の中で絶望と苦悩に打ちひしがれていた人々は、生産意欲さえも失いかけ、混迷の中にあった。  このような状態をなんとかしなければならない、という青年の情熱はいち早く部落青年会を結成せしめ、市町村、地区、沖青連とまたたく間に青年組織の完成をとげていった。

 3万あまりの青年会員を擁した沖青連は、さっそく各分野にわたる多様な活動を展開していったが、とりわけ「村おこし運動」には力を入れるところとなった。

 そしてこの運動をはじめていくための準備を完了した沖青連では、昭和28年9月1日、その趣意書を各地区市町村青年会に送付して運動の展開を呼びかけた。一方、各関係団体にも要請、その協力を得て、沖青連主唱による「村おこし運動」は、一大県民運動となって県下に広がっていったのである。

 次はその時の趣意書の要旨である。

 「だれしも故郷を愛する。いかに貧しくとも、いかに小さくとも、いかに枯れ果てていても沖縄は、わが故郷である。“沖縄”なんという快い響きであろう。祖先幾代が静かに眠る地、幾世代が営々として築いてきた地、幾多の親兄弟、同胞が尊い血を流した地、そしてわれわれの生命を育み、日々のなりわいを営むこの沖縄を、われわれはこよなく愛する。」--------平和から戦争へ、戦争から敗戦へ、敗戦から虚脱状態へ、めまぐるしい時流の中にあって、郷土の歴史は変転し、洗礼を受け、新しい時代の息吹をうけつつ今日までの課程を経てきた。そこには絶望があり、苦悩があり、あきらめがあり、反発があった。------住民の胸の中には、郷土への愛情がうずきながれている。その善意はまだ失われはしない。われわれの故郷への愛情は単なる感傷ではなく、単なるあきらめでもない。真の郷土への愛情は、郷土の発展を祈り、時流に根差す新しい社会建設への意欲でなければならない。しかもこの意欲は、単なる欲求ではなく、実践活動をともなうものでなければならない。------全住民の愛情が、郷土建設への実践意欲としてわきあがってくるとき、大きな民族の力となる。この力が沖縄を興し、われわれの祖先は偉大なる文化を創造し、すばらしい芸術を生んだ。そこには偉大なる政治があった。

 われわれの血の中には、これらの祖先の血が流れている。われわれは祖先の偉大なる業を、もう一度想起しよう。そして民族の持つ力を、民族としての誇りと自信をとりもどそう。------われわれは渾々として流れる故郷への愛情から出発して、それぞれの地域社会に住む全民衆の力を結集して、われわれ自身のために、われわれの住む村を少しでも良くしよう、少しでも豊かにしよう、とここに「村おこし運動」を展開せんとするものである。」

 沖青連の主唱によって展開された「村おこし運動」は、荒廃し混迷をつづける郷土の明日を憂うる青年たちの、純真な心の発露であり、魂の叫びであった。自分たちの力で、自分たちの郷土社会を少しでも良くしていこうというこの運動は、各団体にも大きな刺激を与えるとともに共感を呼び、地域の基本的な施設である「公民館」運動にまで発展していった。

 そしてまた、沖縄の実態を的確に把握し、その裏づけを基礎にして学習活動、生産活動へと発展させ、或いはまた青年たちの魂の躍動をうながし、組織の強化に拍車をかけていった。

 このように全県下で強力に展開されていった「村おこし運動」は、後に誕生をみる「産業開発青年隊運動」の一つの胎動でもあったのである。

第二節 産業開発青年隊運動

 沖縄産業開発青年隊が設置されたのは昭和30年1955年4月28日のことである。

 そのころ、本土各県ではすでに産業開発青年運動が実践されていて、その成果をあげつつあった。沖縄における産業開発青年運動の歩みを述べる前に、とりわけ日本青年団協議会(以下日青協と記す)と沖青連の関係、それに本土における産業開発青年運動の始まりとその経過について、概略ふれておく必要があろう。

 一、沖青連、日青協へ加盟

 戦後、いち早く各部落青年会が結成され、市町村、地区そして中央組織としての沖青連の結成と、次々と組織が拡大強化されていった事は前述のとおりである。

 第二次世界大戦の捨て子として、太平洋に置き去りにされた沖縄県、そしてそこに住む80万の日本国民、人々は誰もが祖国に帰りたい衝動にかられ、その叫びが胸の内にうごめいていた。

 青年達の間にも、祖国復帰の訴えがめばえ組織としても「早期祖国復帰の実現」を叫ぶようになって、沖青連もことあるたびにその意思表明をしてきた。そして、実質的な祖国復帰の一段階として、日本青年団協議会への正式加盟の促進運動がおこった。

 そこで沖青連では、昭和27年11月、東京で開催された「講話記念全国青年大会」に、オブザーバー参加した安座間磨志会長、外6名の代表団は、日本青年団協議会へその意思を伝え、加盟実現方を強く訴えた。そして各府県団にも沖青連の加盟について協力を要請した。

 明けて、昭和28年4月2日、日青協理事会は加盟団体や沖青連の強い要請によってその加盟問題を正式に議題に取り上げて検討することとなった。その結果、沖青連の日青協加盟は全会一致で承認され、沖青連はここに正式に日本青年団の仲間に加わることになる。

 宿願であった日青協加盟を果たした沖青連は、他団体にさきがけていち早く「祖国復帰」を実現したのである。その後、沖青連は本土の仲間との連携をより密にしながら、各分野で幅広い活動を協力に推進していくが、その中からやがて、青年隊運動が生まれ、沖縄の祖国復帰運動の大きな波のうねりがつくりだされていった。

 二、青年隊運動のはじまり

 産業開発青年隊運動は、日青協の多様な運動の中でもとりわけ大きな柱の一つであった。次に本土における青年隊運動の起こってくる背景やその過程をみてみよう。  戦後の日本は、戦地からの帰還兵や軍需工場など破壊された産業からの帰郷者などで混乱し、なかでも日本の農村は過剰人口にあって、特に農村次男、三男対策は最大の課題であった。

 この運動の起源は、昭和25年9月日本青年館が中心になり農村の次男、三男対策をどう進めたらよいかと「農村次男、三男対策中央協議会」が設けられ、アメリカにおけるC・C・C運動を参考にして、産業開発青年隊の創設をはかったのがはじまりである。  わが国でこの運動に手をつけた県は山形県で、昭和26年から実験青年隊を発足させ、27年から青年団と県が協力して正式にスタート、「働きながら学び、かつ就職する」という原則の上に立って青年隊を導入している。

 一方、宮崎県でも山形県と時を同じくして発足し、この2県の事例が青年隊運動に先鞭をつけたといわれる。

 敗戦によって4つの島にとじこめられた日本は、海外からの引揚者や復員軍人が数百万も加えられ、人口過剰の状態となり、また多くの都市は空爆で灰燼に帰し、軍需工場のは開や重軽工業の閉鎖等によって、都会の失業者は郷里へ、あるいは縁故をたどって農村へと移動した。そのため、農村は膨大な人口を抱え込んでただでさえ低生産力にあえいでいるところに、溢れるばかりの人口層で、ますます貧困の度を増していった。

 このような状態にあったため、村々には青年がいっぱいで、したがって青年団員も数多く、日青協結成当時は、全国青年団員500万あまりと、量的には巨大な組織であった。

 昭和22年には、農家は590万9千余戸で、専業農家327万余戸、兼業は263万余戸であり、また24年3月、中学卒業者で農業に就業した者が、男子54.9%、女子57.3%であったことなどからみても、いかに農業青年が多かったかが理解できよう。  従って青年団員の圧倒的多数が農村青年であり、次男、三男、四男、五男の団員も多かったのである。

 このような実情であったから、青年団にとって次男、三男対策、産業の振興、村づくり運動は緊要な課題であった。そして、産業開発青年隊運動がおこってくる背景には、このような状況があったのである。

 三、C・C・C運動と産業開発青年隊

C・C・C運動(Civil Conservation Corps民間市源開発保全隊)

 アメリカでルーズベルトが、当時の世界的不況を克服するために実施したニューデール政策の一環として、緊急開発保全法を後にC・C・Cの設置その他に関する法律として制定し、1933年から1943年までの10年間実施されたニューデールのうちでもっとも成功したといわれる事業であった。

 その目的は、公共事業による失業対策事業であったが、第一にアメリカの天然資源の開発保全に有効であり、第二にそれにもなして重要なことは、物質的収穫よりも、仕事を通しての道徳的、精神的収穫が大であるとされ、単なる失業対策ではなくアメリカの天然資源の開発保全政策の一環として、そのプロモーターとして最もふさわしい青少年をこれに参加させる組織として発案され、当初は緊急事業として実施されたが、後に永続事業として運営された。

 農村の次男、三男対策をはかるため、日本青年館が中心となって全国指導農業協組連合会、農民文化振興会、日本開拓協会、開拓振興会、全日本開拓者連盟、海外移住協会が参加して、農村次男、三男対策中央協議会が結成されていた。

 昭和25年9月、この対策中央協議会は、アメリカにおけるC・C・C運動を参考にして、産業開発青年隊の創設をはかることになり、翌10月、産業開発青年隊の創設要項がまとまり、実行委員を選んでこの実現を図ることがきめられたのである。

 この運動推進の中心が日本青年館であったので、日青協が26年5月に結成されると日青協に対して、これまでの経過を説明すると同時にこの運動への協力が求められた。このため日青協は協議の結果、昭和26年度事業計画の中に「青年団産業経済振興運動の促進▶1人一研究ならびに共同研究振興運動▶青年団貯蓄運動奨励▶農村次男、三男対策中央協議会並びに産業開発青年隊創設に対する連絡と協力」をあげ、第一回静岡大会で活発な討議の結果決定された。

 その後、日青協では従来の産業振興運動と産業開発実践運動とを一本化して、産業開発青年隊運動として推進していくことが決められたのである。このため日青協と日本青年館の合同機関である産業開発青年隊運動中央委員会が発足することになった。

 この件は昭和26年9月の日青協第三回理事会に上堤され、協議の結果承認されたので、日青協を中心とする産業開発青年運動がスタートすることになったのである。

 また、翌27年5月の日青協第二回大会(福井大会)では、「産業開発青年隊運動に関する決議」が採択され、その決議のなかで「現下のわが国の人口問題、とくに農村を中心とする次男、三男の問題の早急かつ健全な解決こそ何よりの急務と考えます。

 このため青年の国民的愛情による切実なる希求と青年のたくましい自主的な意欲により、今や各地において力強く展開されようとしている産業開発青年運動の全面的な推進こそ、地域社会の振興をはかり、国土の保全や総合開発を成功させる唯一のものであり、独立日本の自立達成への原動力たることを信じ、ここに本運動の力強い展開を決議すると同時に、関係当局の理解と協力を要望いたします」----と述べて、日青協として本格的にこの運動を推進していくことをあきらかにした。

 産業開発青年隊の目的とするところは、農村の次男、三男対策であり、潜在失業状態にある18~25歳までの農村次男、三男で何らかの就業を希望している者の数は、ある推計によると270万人もあった。  これらの青年は、農繁期には必要な労働力であるが、農閑期には邪魔な存在となる。農業経営の合理化によって、他の産業部門に転出せざる得ない運命にありながら、これらの青年には就職するための技術がない。

 また、教育を受けるだけの経済的力もない。今まで通り野放しにされておれば青年たちは、村のちかくの土木工事に日雇いとなり人夫渡世の仲間から酒、バクチ、女を教えられ、不良化していくのがオチである。  このような非教育的な立場を、教育的な立場に変え、人間形成に役立つようにしたら、青年自身はもとより、国家にとっても有意義である。

 産業開発青年隊は、こうした青年が自ら立ち上がり、彼らが働く場において技術を学び、身につけて将来のよりよい生活への活路を拓こうとしたのである。  

 四、日本産業開発青年協会の設立

 産業開発青年運動中央委員会の働きかけで、農林省が農村次男、三男対策の一環として、農村青年開拓事業等就労補助費670万円が、27年度補正予算として国会を通過し、初めて国庫から補助金が支出されることになった。

 農林省はこの予算にもとづいて、青年隊の実施県として山形、宮崎、福島、三重、香川、熊本の6県を指定した。農林省の「農村青年開発事業等就労補導に関する要綱」には「農村青年(とくに次男、三男)の自主的に盛り上がる希望により、主として将来入植農家として自立自営せしめる」を目的とした青年隊を、テストケースとして発足したのである。28年度の予算では、130万円となり、前記6県のほか6県を追加指定し、名称も「農村建設青年隊」と改めたのである。

 一方、建設省でも国土総合開発事業に、産業開発青年隊を導入することを決め、28年度予算で農林省と同額の予算化をした。建設省の「産業開発青年隊導入要綱」には①青年隊が地域青年の自発的意志にもとづいて組織される事を前提とする。②導入すべき事業は、国土総合開発に関する全般の事業にわたるものとする。③本年度の導入はモデル的に行うものであってその成果により明年度以降、大規模に実施する。としたものである。

 産業開発青年運動が、昭和26年に奇しくも北の山形と南の宮崎ではじまったことは先に述べたとおりであるが、いずれも国の国土総合開発計画の背景の中から、青年の自立運動として自発的に生まれてきたものであった。28年には、早くも国がその組織を国土皇后開発事業に導入することになるが、この時期における数少ない実績を評価し、この運動の将らにきたいしたからにほかならない。

 このように産業開発青年運動は、政府の予算化によって大きくクローズアップされてきたので、組織内はもとよりマスコミでも賛否両論がかわされた。

 そこで昭和28年2月の産業開発青年運動中央常任委員会でこれらの問題をとりあげて討論した結果、①今後、産業開発青年運動の本旨に沿って農林、建設両省案の調整を十分にはかっていくこと。②県当局が実施主体ということは、あくまでも暫定的な措置であって、本来は民間運動としていくべきものなので、このための援助育成期間として、別に法人格をもった協会を設立することが望ましい。③この運動の啓蒙宣伝のため機関誌を発行するとなどがきめられた。

 また、日青協第三回大会では(一)福井大会の決議を再確認の上に協力に推進する。(二)現在の青年隊は、多くの是正すべき問題があり、今後これが是正のため次の八項目の貫徹を期す。①性格はあくまでも次男、三男対策の一環として行われるもので、従来の農村中堅青年錬成所式、開拓民訓練所的正確及び将来予想される勤労奉仕隊的性格の偏向を耕して、職業補導的行き方をすること。②衛生管理については責任ある対策をたてること。③運営主体は、あくまで民間団体に移管する。④就職斡旋について明確な見通しをつけ、その対策を講ずる。⑤名称を一本化する。⑥教育内容の再検討、職業教育コースを設置する。⑦主管を中央、地方において一本化する。⑧次男、三男対策は青年隊一本に考える事を改めて、さらに総合的な計画を樹立促進する。(三)各県団は実情に即して、以上八項目の貫徹を期して努力することを決議して、その推進に当たったのである。

 日青協は28年度の「産業開発青年運動の経過と反省」のなかで「日青協が28年度においてなすべきことは、各地において実践されつつある青年隊運動の過誤や偏向について、たえず注意を払いつつその正しい発展を進めながら、決議事項の民間機関をすみやかに中央に結成して、従来、ややもすれば本運動を促進する急なあまり、自らの力との均衡を失い、やや管制化した青年隊を本来のあり方に復帰させることであった。

 このために日青協は、前年度からの懸案である産業開発青年協会の設立に多くの労力を費やしたのである。」産業開発青年運動を本筋のものにするために、財団法人日本産業開発青年協会の発足に努力し、ついに関係者の尽力のもとに昭和28年12月に協会が誕生したのである。

 執行部としては、この協会が日青協の意向を十分に反映して、産業開発青年運動の健全な発展と正しい運営がされるよう尽力した。

 また、29年度において日青協は「産業開発青年運動特別委員会」を設置して、青年隊の実態を把握して種種検討を加えるとともに「青年隊実施基準七項目」を決定し、民間運動の性格を強く維持するために、協会の運営に積極的に参加して、初期の目的を達成すべく努力をつづけたのである。

第三節 沖縄産業開発青年隊の創設

 一、胎動

 戦後の沖縄は、前述のようにあらゆるものが灰燼に帰し、その廃墟の中から人々は郷土再建に立ちあがった。  ちなみに、昭和28年頃の沖縄の復興率をみてみると、戦前と比較して農業50%、水産業、工業、生産面ではすべてに立ちおくれがみられた。  その上、広大な耕地が軍用地に接収され、そのため耕地面積は激減し、逆に農家人口は増加するという皮肉な現象が生じたためいきおい、農業では食うに困る状態であった。

 一方、貿易収支の面でも64億円(米1ドル対120円B軍票)の輸入に対し、輸出は5億5千万円で、基地収入を主体とした、消費一辺倒の経済だけが発展し、自主性のない不安定で脆弱な経済基盤の上に成り立っていた。  そのころ、農村の若門たちは自分の村をすて、都会へ都会へと流れていく傾向にあった。しかし、都会へ集まってきた若者たちは働こうにも職場はなく、彼らは食うや食わずの都会での生活を強いられていた。

 世相は混迷し若者達の道義心は退廃、勤労意欲に欠け、あげくの果ては映画館やパチンコ、ビンゴ場へと走った。時代を背負って立つ若者たちの姿は、このように憂慮すべき状態にあった。享楽的、非生産的な風潮の中から、これらの若者たちを救いだし明日に希望を与えるためには、どうすればよいのか。このことは沖青連にとって、看過することのできない最も大きな課題であった。

 昭和23年12月に結成をみた沖青連は、戦後いち早く多様な活動を展開してきた事は、先述のとおりである。異民族支配という不自然な戦後社会の中にあって沖青連は、とりわけ社会浄化運動、道義高揚、増産運動等には力を入れてきた。  そして「青年運動は、生産と結びつき、地域社会の問題解決のための原動力でなければならない」との認識に立って「村おこし運動」の実践が試みられ、大きな成果をあげていた。  産業開発青年運動の台頭の背景にはこの「村おこし運動」が、一つの伏線としてあったとみることができるし、この運動は起こるべき必然性があったともいえるだろう。

 昭和27年11月、東京で開かれた「講和記念全国青年大会」に沖青連は、安座間会長、他6名の幹部オブザーバー参加したが、日青協への正式加盟がまだ実現していなかった沖青連にとって、それは全国的行事への初参加でもあった。  その頃、本土ではすでに戦後の農村次男、三男対策ということからスタートして、産業開発青年隊運動が動き出していた。

 この年(昭和27年)の5月、日青協はその第二回大会(福井大会)で「産業開発青年運動に関する決議」が採択され、日青協として本格的にこの運動を推進していくことを決めていた。  「講和記念全国青年大会」に参加した沖青連一行は、大会終了後、産業開発青年運動の実情を、各地でつぶさに視察、研究して帰ってきた。当時沖青連の主唱によって県下で推進されていた「村おこし運動」に或る種の限界を感じていた沖青連幹部にとって、本土における産業開発青年運動との出会いは感動的なものであった。  それは、彼らが真剣に模索を続けていたものとの出会いでもあった。なお、翌28年4月、沖青連は日青協への正式加盟が認められている。  昭和29年(1954)7月10日、沖青連(会長:端慶覧 長仁)は、その第30回総会で産業開発青年運動を導入することを決議し、青年隊創設が正式に決定された。

 沖青連では、さっそくこの運動の開始をめざして、琉球政府にその育成補助を折衝するとともに、本土における青年隊の実態調査と各県青年隊への受け入れ要請を行うことになり、同年10月、端慶覧会長と平良親徳(当時青連総務部長、元知念高校校長)両氏が上京した。このときのことについて、平良氏は次のように述べている。  「思えば昭和29年4月、国頭中学校教諭の職を辞して、青年運動に専従する身となったのである。安座間会長から端慶覧会長にバトンがタッチされてから、産業開発青年運動が本格化することになり、私は端慶覧会長の伴として、建設、農林両省への折衝、千葉、山形、和歌山、大分等への受け入れ要請に奔走した。」(端慶覧長仁追想集「がじゅまるは倒れても」より)  また、平良親徳氏は「青年隊は沖青連が生んだヒット作品の一つだ」と、誇らしげに語っている。

 この年の11月には、第一次本土派遣青年隊として10名の若者たちがせんこうされて本土各県へ派遣された。これは沖縄における産業開発青年運動のさきがけとなる隊員の養成を目的にするものであった。この本土は県青年隊は第5次(昭和33年)まで続けられ、計47名の隊員が訓練を宮崎、佐賀、大分、島根、岡山、富山、長野、福島、千葉、埼玉、和歌山、宮城の12県で修了した。

 ちなみに、本土は県青年隊員募集の趣旨は、次のようなものであった。  「次代を背負う青年に対し、如何にして明るい希望を与え、その志気を高揚させるかは、現在沖縄におけるもっとも緊急の課題である。このため、産業開発青年隊がこれから青年たちのために、働きながら学ぶ集団として発足し、産業開発青年運動として今や全国的な運動に進展している。

 沖縄の現状を顧みるに、海外移民による発展を図ることこそ焦盾の急である。われわれは、この門戸開放に備えて優秀なる移民青年の育成と、またさらに、本土青年との共同の生活を通して新しい青年運動の生き方を、実地見学させ、以って郷里青年隊運動に寄与するものが大なることを期して、別記要項により本土派遣青年隊員を募集するものである。」

 二、沖縄産業開発青年隊の創設

 このように、本土各県の青年隊へ青年たちを送り込んで訓練をうけさせるかたわら、沖縄県においても青年隊創設の準備が着々とすすめられていた。  沖青連は、各県の青年隊へ派遣して訓練を受けさせていた10名の青年たちの帰りを待って、昭和30年(1955)4月28日、自主的な運営により、青年隊を設置することとなった。  最初のキャンプは、名護町にあった農業指導研究所名護支場の構内の古ぼけた2棟のコンセットを借り受けて設置された。  こうして、念願のキャンプ設置を整えて琉球政府や海外協会、建設業協会、その他関係団体等の協力を得て、第一回産業開発青年隊員の募集を行ったところ、20名の採用に対し、教員や政府職員、市町村役所職員、青年幹部等、多士済々62名の応募があった。  その中から厳選して25名を採用、4月25日から基礎訓練を開始、同月18日には、第一回の入隊式が名護の同キャンプで盛大に行われた。この日の入隊式には、比嘉秀平行政主席、立法員議長大浜国浩、海外協会稲嶺一郎をはじめ、関係各団体代表、父兄多数が参列した。こうして沖縄産業開発青年運動が始動したのである。  沖縄産業開発青年隊の創設に直接たずさわった平良親徳氏は、次のように述べている。  「端慶覧会長の卓越した手腕力量に感服しながら、その手足となって青年隊の創設に参画、第一期生の運営に直接かかわったのである。隊舎の設営、生活規律、教育訓練計画の作成、作業配置、起床から就寝までの教官としての気くばり、加えて庶務、経理一切の処理を、1人でやらねばならなかった。  青年隊の創設は、青年運動の一環として取り組まれたものであり、①地域青年団の役員養成、②村おこしから国土開発への青年技術者の養成、③訓練された青年産業技術者の海外移民等等、端慶覧会長の大望は、沖青連役員の合意のもとに進められていったのである。」  「働きながら学ぶ」ということをモットーとした産業開発青年隊は、こうしてようやく緒につくことになる。  昼は働き、夜は二時間の学習がその頃の日課であった。講師には琉球大学の新城利彦先生、翁長俊郎先生、教職員会長屋良朝苗先生、沖縄タイムス社上地一史氏、琉球新報社池宮城秀意氏、外間正四郎氏をはじめ、琉球政府、海外協会等関係当局の諸氏が担当した。  当初、名護にキャンプを設置したのは、白金ダムをはじめ、当時北部では本部町の備瀬ダム、久志村の安部ダム、宜野座村の宜野座ダム、金武村の父改良事業などが進行中であったからである。隊員は昼間はこれらの建設現場に従事し、夜間は学習をしながら、自主的な共同生活の中で訓練にはげんだ。  第一期生は、終了前に八重山の野底土地測量に参加したが、そのとき野底岳の頂上で青年隊旗を高々と掲げたというエピソードがある。すがすがしい、青年たちの心意気が感じられる話である。

 (1)設立趣意書

 終戦9年を経過した今日、社会はようやくおちつきをとりもどしてまいりました。沖縄青年連合会は結成以来、つねに会員相互の知徳の練磨と社会浄化の為に専念、努力を続けてまいりましたが、過渡期における青年運動は、われわれの眼の前につねに幾多の障壁が前進を阻み、充分なる成果をあげえなかったことを遺憾とするものであります。  今回、本土において活発に展開されている産業開発青年隊に沖縄の青年も参加させようと計画いたしております。  青年隊とは、青年たちが共に暮らし共に働きつつ学び、青年会のもつ組織的実践力を通して、国土の開発国家の繁栄と平和の建設に貢献しようとする運動であり、毎日の集団生活は、青年の社会意識を高め、研究と実践を通して、技術を発展させ、人格、知識を豊かにして、新しい時代への人間の感性を目指す運動として、別名農村次男、三男対策運動ともいわれ、時代の進展にともないった新しい青年運動として期待されています。  沖縄の現実を凝視した場合、今日経済的、精神的な面においては、更生への一途を辿りつつあるとはいうものの青年をして、建設的な意欲をみたしうる施策が講じられていないことは、はなはだ残念であり、この運動こそ青年に希望を与え、明日の沖縄を建設していくための新しい青年運動として期待し、本土派遣とあわせて沖縄自体による建設隊を組織し、青年隊運動を展開しようと計画しているのでありますが、なにしろ青年会自体財政的に貧困をきわめ、尚またこの事業が

 (2)青年隊銓衝要項

①基本方針

 選考の基本方針は、我々がこの運動をとりあげた動機並びにこの運動展開の趣旨及び今後の計画に則って、左記大綱にしたがいあくまで厳正なる態度で選考する。

  • 1.この運動が青年団運動の中から実践を通して民主的に積み上げられ、その背景に地域青年会の活発な地域的日常活動の裏付けによって存在の意義があるので、出身市町村青年会の活動状況を重点におく。
  • 2.この運動が、次男、三男対策から出発し、次男、三男問題解決への運動であるがゆえに、尚沖縄のおかれている立地条件から必然的移民送出の問題とも関連して次男、三男を優先とする。
  • 3.われわれが狙いとするところは、われわれ事態で青年隊を組織し、青年の力を結集して、村おこし運動と結びつけ郷土の復興へ貢献しようとするものであり、これに全面的ン良協力する青年を優先する。
  • 4.われわれとしては、この運動は最初の計画であり、尚本土においては数年来活発に展開され、しかも今期青年隊が出発してより8ヶ月もおくれて参加するのであり、それだけに困苦に耐えうるだけの意志強固にして、沖縄青年の面目を充分発揮しうる青年を厳選する。
②選出原則
 各地区1名を基準とする。但し同一条件の場合に限りこれを原則とし、あくまでも基本方針にのっとって人物本位とする。
③選考基準
 a、書類審査50点
 b、面接審査100点
④選考方法
 (a)書類審査50点
   1、市町村の活動 24点
     イ、会費納入の状況 6点
     ロ、対内的な活動状況 4点
     ハ、対外的な活動状況 4点
     二、事務的な面 6点
     ホ、出身部落の活動状況 4点
   2、本人14点
     イ、職業 5点
     ロ、経歴 3点
     ハ、青年会における経歴 4点
     ニ、各団体長よりの推薦状況 2点
   3、家庭 12点
     イ、続柄 5点
     ロ、家族数 4点
     ハ、稼働者数 3点
 (b)面接審査100点
   1、身体状況 58点
     イ、健康であるか 30点
     ロ、持病の有無 28点
   2、精神、教養面 28点
     イ、応募の動機 4点
     ロ、青年隊を正しく理解しているか 6点
     ハ、家族の意思 5点
     ニ、指導性はあるか 6点
     ホ、次期計画の推進力となる意志ありや 7点
   3、資金面 14点
     イ、準備資金はどうか 3点
     ロ、手持金はどうか 3点
     ハ、期間中家族は困らないか 5点
     ニ、出稼ぎだとの観念はないか 3点
⑤実践目標
 沖縄産業開発青年隊は、将来、海外移民を希望する青年、あるいは郷土の中堅として活躍しようとする青年たちに、毎日一定の実習と講義を行い、農業技術や機械、その他の技術を修得させ、自主的な共同生活を通して「働きながら学ぶ」この中から、良識ある協調の精神と、たくましい開拓を養成しようというのが目的である。

基本目標

 基本目標である綱領をさらに具体化した形で、実践目標として「教育三本柱」というものがある。

壱、時間を守る青年をつくる。 隊員は、5時45分に起床し、午後10時30分まで、決められた時間生活を送る。これは青年隊の行事全般に通用する。たとえば、青年隊の行事に参加していただく方方は県知事をはじめ、指導者の皆様も時間を励行する。

弐、喜んで働く青年をつくる。 私たちの住む人間社会は、自ら喜んで働く気持ちがなければ世の敗北者になり、最後の勝利は、喜んで働くことのできる者にのみ与えられる特権である。

参、節約型の人間をつくる。 「チリも積もれば山となる」の格言は、世人は百も承知だが実行するには、なかなかむつかしいことである。海外における移民者の大先輩たちも「もうかる勝負より、貯える努力」をしなければならないと言っている。「いくらもうかったより、いくら貯えた」かが移住地における勝敗を決めるから、これを青年たちに徹底的に教育訓練を行う。

 こうして、6ヶ月間にわたる規律正しい伊生活の中から、磨きあげられた根性と筋金入りの開拓精神、いわゆる「青年隊魂」が培われていくのである。 当初、この運動をはじめるに当たっては「修了者の就職を斡旋する」「海外移民の優先権を与える」ということを打ち出したものの、第一回隊員の修了時にも海外移民の門戸は、硬くとざされたままで、わずかにブラジルの呼び寄せ移民と政府計画のボリビア移民があるのみであった。

 また、就職の世話をしようにも、6ヶ月間の訓練期間をとおしてブルドーザーの免許を取得したとはいえ、会社や役所でも助手程度の仕事にもありつけない状態であった。米軍作業をやめて青年隊へ入隊したが、結局、修了はしたものの再びもとの職場へ逆もどりしていく修了者もいた。

 青年の自立策、海外移民の突破口をめざして打ち出したこの運動も、度々困難な壁に突き当たり、そのまま行きづまるのではないかと懸念された時期もあった。

青年隊 訓練実績

・昭和46年度訓練生134名修了
・昭和47年度訓練生123名修了
・昭和48年度訓練生74名修了
・昭和49年度訓練生76名修了
・昭和50年度訓練生88名修了
・昭和51年度訓練生105名修了
・昭和52年度訓練生133名修了
・昭和53年度訓練生128名修了
・昭和54年度訓練生169名修了
・昭和55年度訓練生147名修了
・昭和56年度訓練生161名修了
・昭和57年度訓練生156名修了
・昭和58年度訓練生162名修了
・昭和59年度訓練生178名修了
・昭和60年度訓練生173名修了
・昭和61年度訓練生162名修了
・昭和62年度訓練生157名修了
・昭和63年度訓練生141名修了
・平成1年度訓練生138名修了
・平成2年度訓練生140名修了
・平成3年度訓練生136名修了
・平成4年度訓練生138名修了
・平成5年度訓練生186名修了
・平成6年度訓練生206名修了
・平成7年度訓練生211名修了
・平成8年度訓練生235名修了
・平成9年度訓練生212名修了
・平成10年度訓練生230名修了
・平成11年度訓練生189名修了
・平成12年度訓練生147名修了
・平成13年度訓練生164名修了
・平成14年度訓練生164名修了
・平成15年度訓練生164名修了
・平成16年度訓練生137名修了
・平成17年度訓練生128名修了
・平成18年度訓練生94名修了
・平成19年度訓練生77名修了
・平成20年度訓練生118名修了
・平成21年度訓練生148名修了
・平成22年度訓練生110名修了



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